最近思う事なのですが、自然に挑まれていると。
これだけ便利な暮らしを築けた日本。なのにまだまだ自然の前では無力。
神様の作ったものには追い付けない。そんな気がします。
でも「神は越えられない試練は与えない」です。
と簡単に発しておきながら、違和感。
この言葉はよく耳にする言葉で、多くの方からこの言葉を頂き、そうなんだと思いながら自分も使ってみました。
でも実はこの言葉について、常々反抗心に似た気持ちも持っていました。
「じゃぁ!人はなんで死ぬの?」苦しい思いをしながら、痛い思いをしながら…心残りがあった方もたくさんいるはずです。頑張りが足りなかったの? そうではないはずです。
誰の言葉なの
有名になりすぎて独り歩きしているこの言葉。
聖書からの抜粋であることを知り衝撃を受けました。
なぜなら、うちは代々仏教。お東さんです。
キリスト教とは無縁で育ちました。
クリスマスも子供の頃は理解せず、ケーキを食べ子供はプレゼントを買ってもらえるいわば冬の子供の日でした。
そんな私でも耳している「神は越えられない試練を与えない」
実は「コリント人への手紙第一の10章13節」
コリント人への手紙
パウロとソステネからギリシャ南部の都市であるコリントの教会の共同体宛てのお手紙の中の1節として新約聖書に収められている書簡。
コリント人への手紙第一10章13節
パウロが語ったのは「誘惑への対処法」
生きている間には様々な誘惑があります。
昼休み終了間際にハーゲンダッツのストロベリーが残ってしまったんです。
でももう行かなくちゃいけない。
私は今、この欲望を断ち切って行かなくちゃいけないんです。楽しくないです。
生きている間には、次々とこんな誘惑がやってくるわけです。
その中での「神様は超えられない試練を与えない」ですので、耐えられない苦しみや悲しみじゃないらしいです。
どんな誘惑にも耐えることができる避ける術を持っている。
私は今を我慢しハーゲンダッツのストロベリーを冷凍庫に入れておけばいいわけです。
耐えられない苦しみと悲しみ
誰にでも耐えられないような苦しみや悲しみはやってきますよね。シレっといつの間にか。
それが今なのかもしれない。
たった一人で家の中で食料もあとわずか。そんな状況の人もいるかもしれない。
でも冷静になって自分を見下ろしてみてください。
意外と一人じゃないことに気付けると思うんです。視野を大きく大きく。
便利グッズは沢山あります。お節介な人はあっちゃこっちゃにいます。
恐らく神様は存在します。だから神様、ご飯を頂戴!!ではなく文明の利器で呼びかけてみましょ。
宗教
我が家には仏壇があります。神棚もあります。でも、私はお経を唱えることはできません。覚えていないです。でもお線香のあげ方は知っています。神棚に榊を供えることも知っています。
それでも宗教に興味がない。
そしていつの間にか宗教は怖いものとなっていました。
それはたとえ命が終わろうとも輸血はしない。そのことが報道されてからでした。
でもこれものちに血液の病に関連するのではないかと知り、違う意味でまた怖くなりました。
無宗教でいることは多くのことに無知なのではないかという恐れです。
人間で一番怖いのは無知なのではないかと思うのです。
それでも一人の人間が知る知識には限度があって1人が受け取れる情報量にもまた限界がある。
だからこそ人は一人じゃ生きていけないそう思います。
寂しいからじゃないんだと。
人間は一人で束にはなれないと思います。
ソーシャルディスタンス問う言葉が定着されている今だからこそ1人であることを意識したいと思います。
音楽教
私は強いていうなれば音楽教です。
目に見えないモノは、言葉に表すことができないから怖いのではないかと。
その目に見えないモノを言葉として音符として表現してくれる人たちがいます。
見えないモノを見えるものにしてくれるから音楽には救われるのかもしれない。
だから藤原基央と野田洋次郎に求めるのかもしれない。